濱田窯の歩み

大正時代末期に、益子を生活と仕事の拠点とすることにした濱田庄司は、1930(昭和5)年、近在の農家の民家を、町内の道祖土(さやど)という地に移築し、これを母屋(現在、陶芸メッセ・ましこ内に移築)として、ここに自邸を構えます。

その後,1940年代の前半にかけて、近隣地区から複数の建物をここに移築し、その生活空間を拡大させていきました。

仕事場としては、まずは1931年に母屋の脇に3室の登り窯を築き、同年に初窯を迎えます。これが現在の濱田窯のスタートとなりました。また、1934年には、前年より長期間の日本滞在を予定していたイギリス人陶芸家バーナード・リーチの益子での仕事場として、長屋門(現存)を移築し、ここにロクロ場を設置します。

最初に移築した母屋のロクロ場にて(1930s)

さらに、1941年に、町内の窯元が使用していた細工場(仕事場)の建物を移築し、本格的な仕事の場所がつくられました。また、1942年には細工場の脇に8室からなる登り窯の大窯も築きました(いずれも、濱田庄司記念 益子参考館にて公開)。最初に築いた登り窯も部屋数を増やし、2基の窯を使って、工房としての規模も拡大していきました。

1940年代には、地元の職人たちだけでなく、島岡達三や村田元など、初期の弟子たちが庄司の元に加わります。

また、庄司の次男・晋作もこの時期に陶芸の道を志し、徐々に窯の仕事に関わるようになります。

1960年代の濱田邸の航空写真
細工場
絵付けする庄司
長男・琉司と庄司
柄杓による絵付け
長屋門でのリーチ
窯場の前でリーチと
長屋門
家族・職人・お手伝いらと

戦後には、さらに多くの弟子や職人たちが仕事をともにするようになります。また、そうした弟子や職人らによる、工房作品(門窯)も明確な生産ラインとして、庄司の個人作品とともに作られるようになっていきました。

一方で、日本陶芸界を代表する陶芸家となり、より多忙となった庄司の不在を晋作が補助するようにもなりました。そのような経験を経て、1970年には、晋作が日本橋三越本店にて初の個展を開催し、後継の作家としてデビューします。晋作は、1972年に、庄司の仕事場からほど近いところに別の仕事場をつくり独立しました。1978年の庄司没後しばらくは、庄司の時代からの仕事を守りつつ、そこで濱田窯(当時は、浜田製陶所)が運営されていました。

同時に、庄司の仕事場を含む自邸の一部は、新たな展示施設などを加えつつ、一般に公開する準備が進められ、庄司の最晩年である1977年に財団法人 益子参考館として開館しました。

細工場(戦後)
細工場
細工場の前で
登り窯と職人たち
登り窯
窯出し
作品をチェックする庄司(晋作と)
細工場(奥に晋作)
細工場(手前に晋作)
細工場(篤哉)
細工場

1990年代になると、庄司が住んだ母屋を陶芸メッセ・ましこに寄贈・移築し、その跡地に、晋作が自身の仕事場を戻すかたちで、現在の濱田窯の工房・窯などが作られました。

この時期には、大学院を修了した晋作の次男・友緒が、本格的に工房の仕事に加わるようになります。友緒は、1995年に初の個展を開催して後、精力的に作家としての活動を行いつつ、庄司の時代から受けついだ伝統を踏まえながら、晋作とともに、工房の運営や新たな工房作品の生産を手がけます。

2000年代になってからは現在に至るまで、友緒が中心となり、濱田窯と濱田窯の伝統を守っています。