濱田庄司(1894-1978)

1894年 川崎市溝口に生まれる。本名は象二。

1908年 東京府立一中学校(現 日比谷高校)時代、画家に憧れ写生に出かけ水彩画を描く。

  ルノアールの工芸についての言葉を知り、生活に役立つ工芸の道に進む志を強くする。

1913年 東京高等工業学校(現 東京工業大学)にて板谷波山から教えを受ける。大学の2年先輩の河井寛次郎と出会う。板谷波山邸で益子の山水土瓶を知る。

1916年 京都市陶磁器試験場に入り、先に入所していた河井寛次郎と陶芸研究に没頭する。

1918年 河井寛次郎と沖縄を訪問。那覇市内の壺屋の新垣窯と親交を持つ。

  東京の神田の流逸壮で開催のバーナード・リーチの展覧会を訪問する。

1919年 富本憲吉の紹介で、白樺派のコロニーであった我孫子へ行き、柳宗悦、バーナード・リーチ、志賀直哉らと親交を結ぶ。

1920年 初めて益子を訪問し窯業指導所などを見学する。「益子はとても良い所だ」との

  印象を持つ。バーナード・リーチからの誘いを受け、船で渡英。セントアイヴスに二人でリーチポタリーを開窯する。

1921年 ディッチリングのデザイナーたちと交流を結ぶ。田舎の健やかな暮らしぶりから自然に生まれてくるデザインに感銘を受け、帰国後は益子に住むことを考える。

1923年 ロンドンのパターソンギャラリーで初個展を開催。成功を収める。

  関東大震災の報を河井寛次郎より受け、予定より2年早く帰国を決意する。

1924年 イギリスの古陶スリップウェアを携え柳宗悦邸を訪問。当時、柳と反目していた河井寛次郎に同席を求める。すぐに3人は意気投合する。

1925年 柳宗悦、河井寛次郎と和歌山を訪問中の汽車の中で3人で「民芸(民衆的工芸)」の語を生み出す。沖縄と益子で窯元に間借りして窯を借りながら作陶を行う。

1930年 三越で初個展開催(以降毎年開催)

1931年 益子の自宅に3室の登り窯を築き、濱田窯を始動する。

1934年 バーナード・リーチの益子滞在のため、近隣の長屋門を移築。長屋門内に轆轤を2台設え、二人の工房とする。

1936年 日本民藝館の開館に尽力する。

1942年 8室の大型の登り窯と近隣の庄屋から110坪の屋敷を買い取り移築し、上ん台と名付ける。(登り窯と上ん台は益子参考館となり一般公開)

1949年 第1回 栃木県文化功労章を受章する。

1952年 イギリス、ダーティントンでの国際工芸家会議にバーナード・リーチ、柳宗悦とともに参加、陶芸実演を披露する。

1955年 第1回 重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。

  ドイツの塩釉焼成に挑戦するため日本初の塩釉窯を築く。

1961年 柳宗悦の死去を受け、日本民藝館の二代目館長に就任する。

1963年 晋作を伴いアメリカ各地で陶芸講習会、展覧会を開催。その後メキシコ、スペインを訪問し民芸品を収集(翌年に日本橋三越で大スペイン・メキシコ展開催)。

  その後、セントアイヴスにバーナード・リーチを訪ねる。

1964年 紫綬褒章を受章する。

1968年 文化勲章を受章する。

1970年 大阪日本民藝館の初代館長に就任

1975年 バーナード・リーチの著作『HAMADA Potter』出版

1977年 自宅内に益子参考館を開館し初代館長に就任。

  東京国立近代美術館にて「濱田庄司展」開催

1978年 永眠。83歳。