民芸運動とは、1920年代にスタートした工芸をめぐる文化運動です。運動を主導したのは、白樺派に所属していた思想家の柳宗悦(1889-1961)です。
この運動を通して、柳をはじめとする同人たちは、私たちが生活のなかで使用する日用的な雑器のうち、とくに伝統的な手仕事に美術工芸にはない美があることを主張し、これらを「民芸」と呼び、その美を喧伝しました。
濱田庄司は、運動が始まるよりも以前から、バーナード・リーチを通して、柳と交流を持っていました。また、イギリスから帰国した後には、当時、関東大震災による災禍を避けて京都に移住していた柳と河井寛次郎の仲をとりもつ役割も果たしました。
柳、河井、濱田の交流のはじまりは、民芸運動のスタートの大きな起点ともなりました。そして、1925年には、この三人に陶芸家の富本憲吉を加えた四人の連盟で「日本民芸美術館設立趣意書」が発表され、これが運動の公式なスタートを告げるものとなりました。
濱田庄司が益子に移住するのも,民芸運動のスタートと同時期でした。益子は、関東を代表する伝統的な陶器産地ですので、民芸運動が注目しうる産地の一つではありましたが、濱田が移住したことで、益子そして濱田窯は、民芸運動と深い関係を持つことになりました。
1930年に庄司が濱田窯を創始し、ここに自宅を構えた時、最初の訪問者は、当時は民芸運動に関与していた青山二郎と武原はんの夫婦であったといいますし、柳や河井も複数回、濱田窯と益子を訪れています。また、リーチは、ここに長く滞在し、庄司とともに仕事をしています。現在も濱田窯に残る茅葺きの長屋門は、1934年に来日したリーチが益子で作陶する際の仕事場として建てたものでもありました。
庄司の存在は、益子の窯元の仕事を民芸運動と結びつけることにも寄与し、益子の仕事が広く全国,あるいは世界に紹介されることにもつながりました。
また、庄司自身も、民芸運動の主要な同人でありつづけ、1961年の柳の没後には、日本民芸館の第2代の館長をつとめ、1970年の日本万国博覧会にパビリオンとして出展された「日本民芸館」でも名誉館長(のち、ここが大阪日本民芸館として開館した折には、その館長)をつとめました。
庄司の没後も、濱田窯は、民芸運動にゆかりのある窯元の一つとしての伝統をまもり、継承しています。