神奈川県の川崎市に生まれ、東京で育った濱田庄司が、栃木県の益子を初めて訪れたのは、1920年(大正9年)の3月のことでした。
当時の庄司は、京都の陶磁器試験場に技手として勤務していました。東京高等工業学校窯業科で学んだ庄司は、学校の先輩であった河井寛次郎が先に勤務していたこの試験場に1916(大正5)年に入所しています。ここでは、おもに釉薬の試験などに従事し、庄司が中心となって開発した合成呉須は、のちに特許を取得してもいます。
益子を初めて訪問したのと同じ1920年,庄司は,陶磁器試験場を退職しています。前年に知遇を得た、バーナード・リーチの誘いを受けて,イギリスに渡るためでした。
この誘いを受けた庄司は、リーチとともに、イギリス南西部,コンウォール半島のセント・アイヴスという地に窯を築きます。リーチポタリーです。
工房の仕事とともに、庄司は、自分の作品も制作していきました。そして、1923(大正12)年4月、ロンドンのパターソンギャラリーという美術画廊にて、自身初の個展を開催し、イギリスで陶芸家としてのデビューを飾ります。
さらに数年,イギリスで活動を継続することも考えていたようですが、この年9月に起こった関東大震災の知らせを受け、庄司は少し早めの帰国を決意します。
同年11月にパターソンズギャラリーで2回目の個展を開催したのち、年末にロンドンを発ち、翌年3月に帰国します。帰国後しばらくは、京都の河井寛次郎邸に滞在し、ここで日本での仕事をスタートさせます。
同時に、帰国後の作陶の拠点となる場所を探し始めます。益子の他に、沖縄や朝鮮も候補となったそうですが、最終的には、益子を選択し、1924(大正13)年に益子への移住を決めます。
数年の間借り生活ののち、1930(昭和5)年に、庄司は益子町道祖土に自邸と仕事場を構え、翌年には初窯を焚きます。これが濱田窯のスタートで、現在も同じ場所で仕事を継続しています。
濱田庄司は、益子を作陶の場として定め、没するまでここを拠点としていましたが、地元の職人から陶芸家となったわけではなく、完全な外部者として益子に移住し、自身の作家としての活動を行った人物でした。
その作風は、土地の素材を活用することを第一としていたこともあって、一見すると地場的ではありますが、実際には、イギリスをはじめとした欧州や沖縄、唐津、朝鮮など、様々な場所の技法が作品にモチーフとして取り込まれています。
古作を新作のモチーフとして表現することは「本家取り」などといって、日本の陶芸の分野ではかつてより多く見られたものですが、その時の「本家」には、中国陶磁など技術的にも美的にも高度で精巧なものが選択される場合が一般でした。
そのような状況のなか,庄司は日本を中心とした東洋の雑器(民芸)をモチーフとし、自身の作品に取り入れました。濱田庄司は、このような作陶スタイルのパイオニアの一人として評価されました。